紙とギター

中高年だが中高生のようにギターを始めた

白髪染めるのやめようと思う

30代の頃から白髪はあって、だいたいヘナで染めてた。オレンジ色の髪はまあまあ気に入ってたけど、50代も半ばになって髪を染めるのがなんかめんどくさくなってきた。

きちんと染めてない根元だけが白い髪はちょっとかっこ悪いと思う。ズボラなのがかっこ悪いとは思わないけど、「隠そうとして隠しきれてない」感はいただけない。いつもその「ちょっとかっこ悪い」自分が、ヘナで染めることによって「まあまあの自分」に見えるような気がしてたので止められなかったけど、そもそもぜんぜん染めてないとしたら、それはそれでいいような気もしてきた。

最後に染めたのがいつだったかもう思い出せないけど今のところたぶん4ヶ月以上は染めていない。私はもはや「髪染めをサボっている人」ではなくて「白髪に移行してる人」に見えてるんじゃないかな。

今はまだ短めの前髪にもヘナで染めた部分が残ってるけど、なんか白髪のある自分に慣れてきた。一気に真っ白になるのもかっこいいかもしれないが、とにかく手をかけないことと髪や頭皮を傷めないことが私の目的なので、脱色したりはもちろんしない。観葉植物だって斑入りの葉は高級なんだ。黒髪と白髪が混じってたっていいだろう。

手をかけない、といえば私はシャンプーもリンスももちろんトリートメントもしない。いわゆる湯シャンというやつである。「湯シャン」という言葉もなかったくらいの昔、シャンプー使ってない人の話を聞くと「ええっ」と驚いてたけど、いつの間にか自分もそうなっていた。なくてもいい、という理由だけでそれほど強い意思ではなかったのだけど、なってしまうとこれは楽すぎて元に戻れない。

湯シャンにしてしばらくするとたしかに脂の分泌が減るので、たまにシャンプー使ってみるととてもパサパサになります。湯シャンにすると、湯シャンでいい髪になってしまうのだ。

身体も何も使わず洗ってる。一人暮らしなので湯船の中で洗う。浴室はそれほど汚れなくて、掃除も楽だ。

もしかしたらまた気が変わってしまうかもしれないけど、今は白髪染めなくてもいいかなと考えているということを記録しておく。ヘナで染めたところをぜんぶ切ったらどんなふうに見えるのか分からない。

ちなみに髪を切るのも自分で切ってます。

英語で話してたのに記憶は日本語になってるのがまだまだだなと自分で思う

英語の発音の先生が言ってたことで面白かったのは、functional words なんてのは grace notes(装飾音)なのだから、できるだけ短く弱く発音しろ、ということだった。どれだけ速くしても速すぎることはない、と言われた。functional words は短く弱く、と知ってはいても、そうできなかったのに「装飾音」と言われるとできるようになった。音楽に例えられると私には分かりやすいのだ。先生は「タラーン♫」と言って、そんなに動くと疲れるのではないのかな、と思うくらい大きなジェスチャーで私を褒めたりノーと言ったりしていた。

「どれだけ速くしてもリズムさえあっていれば大丈夫、聴き取れる」と言われた。私が「ぜんぶきちんと分かりやすく発音しないと聴き取ってもらえない」と思っているのはお見通しなのだった。

英語は発音とフレージングを中心にやるしギターは動画アップロードを目的にはしない

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年末にオープンマイクでこの曲をやろうとして、惨憺たる演奏になってしまった。それでギターに関しても英語に関しても毎日のやり方というか向き合い方をシフトしようと考えている。

英語はこの上ない先生に出会うことができた。今年は発音重視で練習しようと思う。発音関連の基本はYouTubeで一通りみたし、ネイティブが何を強調し、弱くし、つなげ、リズムやメロディーを作るかということは頭には入ったつもりで、真似できなくても聴き取ることはできるし、スピーキングに関しても発音のせいで理解されないことが頻発するというほど発音が悪いわけではないので、「こんなもんでいいだろう」と思っていたのだ。それより重要なことがいろいろできていないと思っていた。しかし先生に習ってみると発音とフレージングをきちんとやるのが近道な気がしてきた。1パラグラフだけで10箇所以上注意され、中途半端だとずっとノーと言われ続けたし、時間内では当然完璧にならなかったが楽しかった。45分間のレッスンだけでその後、英語のコンテンツの聴き取り能力が少し上がった。これは気のせいじゃないと思う。

その記録としてポッドキャストを始めた。これはまだレッスンの前の発音です。

listen.style

 

ギターに関しても今年は何回かは先生に習ってみようと思っている。いつもじゃなくていい。それとは別に、動画を撮るときにできるだけ「本番」に近いかたちで、少ないテイクで撮ろうと試みている。もともとは20回以上撮ってその中から奇跡的にうまく弾けたテイクをアップロードしていたのだ。そういうやり方は動画は一見まあまあに見えても、曲の完成度自体は低くなるし、動画を撮ってしまったらその曲はほとんど弾かなかったりしていた。つまり単に記録としてチャンネルを始めたつもりがいつの間にかチャンネルにアップロードすることが目的になっていた。

これはあんまり良くない。実際、年末のオープンマイクに出たのも、会場のバーで動画を撮れればいつもとは目先が変わってなんかかっこいいと思って急いで練習したのだった。何回も練習した。大好きな曲なのに弾いてて若干楽しくないような気がしてきてまで練習した。しかし上手く弾けなかった。それはそういうことなんだ、という納得があった。落ち着いてもう一度やってみればやはりこの曲は最高だと思ったし、この後も弾きたいし、他の曲もそうする。

他にも、ギターが関係ない集まりでもギターを持っていってジャイアン的に他人の前で弾く機会を増やすつもり。

なんでもやってみないと分からないことが多くて、ビックリしたり納得したりしている。

余談だが今年は息子に「帰省するなら自分で新幹線代を払え」と言ったところ帰って来なくてひとりで年末年始を過ごした。たぶん年越しをひとりでやったのは初めてだと思う。これがめちゃめちゃ楽しかったです。1%もさみしくないと言えば嘘かもしれないが、どうせ混じり気のない気持ちなどは最初からない。しきたりにとらわれず1日ずつをどう過ごしたいかを1日ずつ考えて過ごしていて、とても楽しいです。

Primal Scream's Velocity Girl

夏があまりに暑すぎて3ヶ月空いてしまったけど、今日カバー動画をアップしました。

 

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動画の解説のところにも書いたけど、これはイーディ・セジウィックのことを歌ってるんだそうで、つまりこの曲の1行目、 Here she comes again というのはヴェルヴェッツの Femme Fatal の1行目、Here she comes を本歌取りしてるんだね。

 

高校生の頃に好きだった曲を弾いてみようとすることで初めて知ることがあったりするのも面白い。

 

自分の音楽の好みが少し広がりはしたけどまったく変わっていないことを、不思議かつウンザリかつ素晴らしく感じる。人生においてこれだけのことがあったのに、私は変わっていない。

文学的であることと音楽的であること

最近ちょっと考えたんだけど私は文学は好きなんだけど文学的であることは好きじゃないんだ。逆に、私は音楽は好きじゃないと思う、一般的に言うと、嫌いな音楽の方がずっとずっとずっと多い。しかし音楽的であるということは好きで、音楽はたまに素晴らしく音楽的であり、それはひとつひとつの記憶のようなものです。

ほんとによく分からん独り言ですみません。たとえば私が去年フジロックに行って、いちばん音楽的だと思ったのは、ひとりで迷子になった夜に誰もいない広場で見た星空であって、ライブではなかった、というようなことです。

漫画は文学でも音楽でもないけど時折文学的で嫌だなと思ったり、音楽的で素晴らしいと思ったりする。

meet と meet up は意味が違う

今更英語をやろうと突然やる気になったのは当然ブライアン・モルコになるためなんだけど、言語学習はやってみるととてもおもしろい。インターネッツが普及する前から日本にいながら英語ペラペラになってた人はすごいとつくづく思うが、今はいろいろやりようがある。

3日に1回くらいのペースで英語で日記を書いてて、それを添削してもらってる。その中で、

We were perfectly at ease with one another, as if we'd met just the day before.

と書いたら、

I don't understand what you mean by this.

と言われてお互いなんで通じないのかしばらく分からなかったんだけど、いろいろやり取りしてて、やっと "up" が抜けてるだけで通じてなかったんだ、と分かった。

ざっくり言うと、meet up は単に「会う」という意味だけど、meet は「初めて会う」という意味になる。

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そのことはなんとなく知っていたんだけど、使いこなせていなかった。私が書いた文章は

まるで昨日初めて会ったばかりのようにお互いに居心地が良かった。

となる。昨日初めて会ったばかりなら実質まだ他人みたいなもんだろう? と言われて?? となってたけどつまり私は久しぶりにあったにもかかわらず、

まるでつい昨日も会ってたみたいにお互いに居心地が良かった。

と言いたかったのである。up を入れて、

We were perfectly at ease with one another, as if we'd met up just the day before.

とすれば通じる。母語話者にとっては当たり前すぎて、非母語話者にとっては微妙すぎて、なんで通じないのか分からないことが分かった瞬間はおもしろいし、そういう間違い方、分かり方をしたフレーズは記憶に残る。

ちなみに

as if no time had passed

とかでも似たような感じになると教えてもらった。こっちのほうがなんか簡単かもね。

 

一張羅のワンピースを着て計量カップからお茶を飲む

だいぶん家の中が片付いてかなり気分がマシになってきたけど家事が苦手なのはなかなか直らなくて、ちょっと気を抜くと洗濯物が溜まって一張羅のワンピースしか着るものがなくなるし、計量カップしかきれいなコップがなくなる。

私の母が急死したとき、私の父はちょうど今の私くらいの年齢だった。つまり50すぎである。親戚やら友人やらが争って「後添え」を世話し始めて、2年も経たずに父が再婚したとき、正直に言えば私もホッとしたのであった。ああ、これで、家事をやるためにいちいち大学を休んで帰省せずに済むと思ったんだろう。なんと甘い、なんとクソな私だったことだろうか。父の再婚相手はカルトの人で、私は人生の途中で突然カルト2世になったのだ。

男がひとりでいたら周りがなにかと世話を焼きたがる、そんな文化はクソすぎるので今すぐ滅びればいいし、私の中ではとっくに滅びてる。